昭和42年12月6日 朝の御理解 大坪加代太郎
人を助けると言うことは、まず、自分が、助かるということに、なる。人が、人が助かると、言うことは、即ち自分が助かることだと。
今日の、ここの机の上に、お道の新聞が、昨日きたのでしょう。ここい置いてあった。その、誰かが書いておられる、この雑誌に書いてあるのです。内容は読んでおりませんけれども、私の、助けるとか助かるということについての、考え、私の考え方も、これが、助ける道、即ち助かる道とか、という、中村という方が書いておられますね。助ける道と言うことは、即ち助かる道だと。お互いが、一つ本気で自分自身が助かって、人が助かっていくということに繋がっていくような、助かりを頂きたい。それで私がまず、何と言うても、立派な家に、住ませていただくにはです、お金も十分、人に迷惑かけんですむように、まあ立派な暮らしができるように、健康でもあるように、まず私がおかげ頂かなければ、人は助けられない。ということではないのですね。人を助ける道と言うことは、自分が助かる道だと。そういうふうに自分がその、あれもおかげこれもおかげと、おかげ頂きってしまわなければ、どうしても助けられんということじゃない。それは自分が助かっておるという人だけは助けられるわけなんです。ね、自分が助かっておるだけは、例えばここに1万円のお金を持っておるなら、ここに1万円という人が助かるといや、1万円貸してあげたら、それこそ助かると。ね、必ずしも、1千万円持っとかなきゃ助かっとらんということではない。それなりにです、思うてみると、助かっておる。その、助かりが本当のもっともっとほんとの、大きな助かりになっていかなければならないということです。
私は、これを、その通りだとこう思う。助ける道と言うことは、自分が助かる道だとこう。だから私がおかげ頂かなければお導きができんと言ったようなことじゃないわけですよね。だから、自分、自分が助かっておる、(以内なら?)助けられる。自分が力を持っておるだけのことは助けてやれれる。その、ですから、自分自身が、助かっておるということのその、自覚と言うかね、そこのところを、私は、確かめ、発見していかなければならない。
昨夜、壮年部会で、遅くまで皆さん、この頃あの一人一人が、発表されます。それですから、( ? )の会に、ほんとに、活気がございますですね。昨日も、昨日もございました。( ? )。皆、その、( ? )たくさんおられるのでございますから、皆、呼びかけて、こういう信心の共励をしようと言うようなことで、ございましたが、中であの、富永さんが発表しておられます。(末永先生?)があの、我無力ということを言われる。いわゆる障子一重がままならぬ人の身ぞ、ということ。障子一重がままならぬ人の身である。というのを自分では、自分をどうすることもできないという、そんなこと( ? )、どうも、自分にも、こういう力があるじゃないか、ああいう力があるじゃないかて言うふうに思うておった。ところがこの度ばっかりは、いよいよ自分の無力だったと言うのである。
奥さんが、先日、ここで、ちょうど伊万里の、竹内先生たちが、見えられ、たくさん参ってきとりました。( ? )、ここで何か研修会かなんかあったとでしたか、全部で( ? )でしょう。合同のようで、信心の共例を( ? )ときに、ちょうど、(ほんとう?)でした。電話が掛かってまいりました、富永先生。それも奥さんから電話があった。そして、私はその、創価学会に入る、て電話で。お前がはいりよかんな、お前が入りゃ、入ってもよかたいと。電話だから何も言いようもなかったから、まあ、まあ申しましたけれども、まあ帰ってみられてから、昔の知り合いの人の導きで、創価学会に入られた。お前が入るなら、入ってもいい。俺はもうどうでも金光様の信心に助けられんじゃから、金光様の信心をする。お前が助かることんなら、何教でも何様でもいいと。向こうはもう、助かるとこう言い切られる。( ? )。だからあなたが助けていただくならば、ほんとに、一つ、あの家内を、創価学会に、入会させるとこじゃあるまい。ですから、今度会合のときに来い。そん時私が、( ? )と言うて、まあ実際、送っていかれたそうです。
そんときにですね、もうとにかく自分の家内ですら、もう自分の思うようにしきらんのだから、自分の信心いただいとる信心しきらんのだから、だんだん自分のその無力さが分かってきたち言うんですね。向こうで、話し合い聞かせていただいて、もう家内がそのように乗り気になっていけばいくだけ、はー自分じゃそれを引き止める何の力もない、ということが分かってきた。ほんとに、これは自分が無力だなあ、と思うたら、その、無力だと思うところから、すがらなければおられないものが生まれてきた。私じゃどうにもできません。どうぞ神様、家内がこういう間違ったことを申しておりますから、どうぞ、おかげ頂きますようにと、もうほんとに切実に、もう昨日涙、その、涙を拭いてそのことを言うておられましたですね。
自分が力がないてことが、本とにわからさせてもらう。自分が家内に、説得することも、なかなか、(ぞうげいか?)ですからね。もう人を説得することは非常に得意なんです。それで自分の、そういう力を持っておると思うておったけれども、その力すらが、もうここには、役に立たない、いわゆる、難儀と同じことになったときにです、けれども、そこに行けば助かると、創価学会に行けば助かると、その、導きで来た人が言うもんですから、家内はそれに乗り気になってしまって、なら、ほんとにお前が助かるごたるなら、俺がお前の助かりを邪魔するわけにはいかんから、俺がその、わざわざ連れてでも行こうと言うて連れて行った。そして、お話を聞いているうちにです、だんだん、ほんとにどうにもできないことだということが、わかった。自分がいよいよ、無力であると言うことを、その時ほど感じたことはなかったと。
そしてその、心から、もう決めたち、どうにもできない神様の前に両手を上げて、無条件で、すがらなければおられないということが、すがらなきゃおられなかったとこう言うのである。( ? )な会が、その話ぐさに、たくさん集まっておるところでしたでしょうかね。その、お導きをされた、ご主人という方が、例えばこう、知ってある、と言うことは、まだ学会に入っていない。という( ? )。それでも、自分は金光様の御信心をいただいて、こうこうだという話を、家内を引き止めたい、とそういうのじゃなくて、そういう話をなさっておった、その話を聞いておった、そこのご主人がですね、このような創価学会のあんた達の話しよりもね、( ? )ほんなこつだとこう言う。大体あんたんごたっとが創価学会行かせたら( ? )と、姉さんに、その人が、自分が言いたいことを説得してくれた。それほど、いわゆる乗り気になって創価学会に入ると言うておった家内がですね、( ? )ということになったというその、話を昨日しておられる。
はー、自分の無力、自分ではどうにもできないんだと、言うことをですね、分からせてもろうて一心に、無力である私、いわゆる障子一重がままならぬ人の身であると言うことを、ほんとに、あの時ほど感じたことはなかった、そこには、すがらなければおられない。これはもうおのずと、すがるという、合掌するという心が、表れてきたわけなんですね。あそこんにきがですね、やはり、あの助かるとこう・・。自分はこれだけのことはできる。ならできるならお前やってみりゃよかたい。て神様が言いよんなさるような感じのところが、助かっておるとでしょう。これだけ私はできます、ならやってみようかという。自分ができよる、( ? )。自分が(おかげ?)を運転してきた。ご飯も炊ききる。こうもできる、ああもできる。なら、やってみりゃよかと言うて神様は、いわゆる放任してござるような、感じ。けれども、だんだん信心させていただいておりますとです、そういうようなことから、ほんとに、自分じゃ何にもできないということに、直面したときに、初めて分かる。障子一重がままならぬ人の身であるということが分かってくる。
そこで、ここにすがらなければおられないということからです、そこから私は発足したところの、助かりでなからなければ、そこんとを助けられないようなものですよね。信心で言う助かりというのは。こんだけのことを助かっとる。確かに、それよりも助かっておる。けれども私は、その助かりがはっきり分かると言うことは、自分が何にもでない、無力である、と言うことを、私そこに分からせてもろうて、そこから、すがらなければおられないということ。そこに、私は助けられておる、事実を、自分の心で、確かめることができる。助けられておるんだなということ。私そういう助かり方でなからなければですよね、人を助ける道には繋がらないってことですよ。助かる道と言うことは、助ける道に繋がっておらなければならない。( ? )、自分が、無力であると。自分が、これだけは自分は得意である。こういうことだけは人に負けんですむ、と言っておる間は、なるほどそれ、そのとうりでござる。( ? )人に負けない。
これは私が、お商売をさせて頂いておるときでもそうであった。もう他のことはしきらんばってん、まあお商売のことでならば、誰にでも、負けない、という、その、自信のようなものを持っておった。またできてきた。それが、だんだん、ある日いきずまり、これもできなくなってから、初めて、自分の力ではなかったということが分かった。神様のおかげを頂かなければ出来ることじゃないことが分かってきた。そこから、私が、いわゆる我無力であると言うことを、分からせてもろうて、ほん、おすがりするより他に手はない、道はないということからです、もう自分というものをほんとに、その、いわゆる、無力のところにおいて、そこから、すがるというのでなからなければ、ほんとのすがるということになってこない。これだけは出来ますから、これから先は神様にお願いしますと言ったような、信心。ね、もう健康のことはお願いせんでもいい。お金んことだけお願いする。お金のことは、心配いらん、十分にあるんだから。健康のことだけお願いすればよい。と言うような心ではですね、本との、( ?)助かり、ということになってこないように、思うですね。
持てるもの。自分にあるもの。それを、ここ、(せんじつめて?)、それとてもやはり、神様のおかげで私は私で商売できておったというてもです、そういうやはり神様のおかげで出来ておったんだということが分かるときにですね、そこに、初めて、私が、私が助けられることが、出来るときの段階が、出来たように思うのです。
自分が、教祖の神様が、この方は人が助かることさえ出来ればよい、と仰ってます。もう助けることにはもう、いわゆる、大変な、自信を持っておられたわけですね。ということは、それだけ教祖の神様が助かっておられたということなんだ。これは私もそれを、同感です。もうどうしたら人が助かるじゃろうか、例えば、お道の先生方の、会合になると、もう真剣な話しであれば必ず、取次ぎ助けられると言うことはどういう取次ぎ方をしたらば人が助かるかと言うことを、いつも焦点にして、お話しがあります。自分がほんとに取り次ぎ助けてやらなければならない、立場になるのですからね、教師というのは。だからどういう、どういうような、言わばお取次ぎをしたならば、この人が助かるだろうか、人が助かるだろうか。難儀な氏子が助かるだろうか。この方は人が助かることさえ出来ればと仰るが、どげんすれば、人が助かるだろうかということを、一生懸命、そして、まあいろいろ、ああでもないこうでもない、と言うて、その、討議されるわけでございますね。けれども私は、お取次ぎの、その新聞見てから、思い出したなら私もそうだなどと。人を助けるということはね、まずあなたが助からなければ、あなた自身が助からずに人が助かるもんですか。これはもう、言うなら私の持論でもあると。ほんなら、私が助かると言うことは、どういうことか。それを、今日改めて、分かったような気がするんです。私が助かったのは、私自身が、自分では何にも出来ないということが分かったところから、すがらなければおられないものが生まれてきた。すがらなければおられない、そこから助けられていっておる私。それが、ここで人が助かることの、原動力になっておるんだということ。
自分が話が上手じゃから、教祖の神様の、言わば御理解なら御理解を上手にこの人に伝えたから、この人が助かるという間はです、それはほんとの助かりにならん。まずはやはり、私自信が助かる以外にない。先生方、銘々が、ほんとに助かる以外にはない。でなかったら、人は助からん。じゃあどうしたら人が助かるじゃろかと。どげんしてから、人が助かるじゃろうか言うもんか、あなた自身が助かることたい、とこう、言いたいわけですね、私は。なら、そこんところの助かりと言うことは、ならどういうことか。私はお金に不自由しない。( ? )しない。お金を持っておる。そういう、助かり方では、人が助かるという、信心で言うところの助かりには繋がらない。この一切が、あなたの御物であるということですね、言うならば。私の力じゃないと分かったとき。いわゆる、私が、私は無力であるということが、本気で分かったとき。そこから、すがらなければおられないものが生まれてくる。そして、すがって助けられたときに、あなたは助かったんだということが言える。この助かりならば、絶対、人を助けることの道に繋がる。
私は今日の、そのことで、おかげ頂いたと思うことはです、確かに人が助かると言うことは自分も助かることだけれどもです、自分がなら助かると言うことはどういうことかと言うことを、私自身助かっておって、はっという言葉で表現することが出来なかった。ここにこの安心を頂いておる。いろんなものに恵まれておる。それが助かっておると思うような感じだったですね。ところがそうじゃない。そういう基になるものは何であったかというと、私自身が、我無力であるということを悟ったところから、こういうほんとの助かりが(やまん?)できてきた。だから、そういう助かりでなからなければ、人が助かる道には繋がらないということを、今日分からせていただいたように思うのです。どうぞ。